2013/06/01

さんみいったいって、いったいなんだ

熊本教会月報6月号より
              日本福音ルーテル熊本教会
牧師 杉本洋一

わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。” (雅歌4:7)


人は誰も、幸福を求めます。
どんな境遇に置かれても、幸せでありたいと願って生きているとも言えるでしょう。時として、生活において、不幸が訪れる事があります。でも、不幸であることを自ら求めて生きた人は誰もいません。たとえ、その人の人生に困難が備えられていたように見えても、それを、はじめから、真正面から受け止めて歩んで来たのではないでしょう。結果的に、逆境を受け止めたことになったのでしょうし、もしかすると、そのような人を、多くの人は勇敢な人と呼ぶことが多いでしょう。この中には、生まれながらに苦しみを背負わされたように見える人生もあるでしょう。
信仰生活は、私たちに、生きる支えを伝えます。神の眼は、人の眼に、立派であるようにというのではなく、どんな人間も、美しくあって、そのままで生きていて良い!と映っていることを、確認させるのです。神は、いろいろな形、やり方、方法で、人間を愛してやまず、見捨てないのです。
先が見えない人生の歩みの時にも、「私はここにいる、しっかりするのだ」と神の子・イエス・キリストは、私たちに語られます。神の霊も、目には見えなくとも、「私たちを導かれ」、私たちを神のもとに立ち返らせるのです。私たちは、先日の日曜日に「三位一体の日」を迎え、「三位一体」という言葉を耳にしました。父、子、聖霊というのは、神の人間に対しての「働き方」の説明です。唯一の父なる神と子と聖霊の関係を適切に説く、表し方です。
旧約聖書の神は、人間をはるかに超越した世界を創造した神であり、聖なる正義の神であり、時としては不信仰、不従順な民に対して嫉妬し怒りを発する神です。そして新約聖書の福音書には、イエス・キリストが明らかにした父なる神が示され、使徒言行録にはさらに、聖霊としての神のはたらきが示されています。
 神は三つの働き方において働かれる調和の神であり、神の力と愛が今もここに働いているということで、この力がこの私たちの生活にも働くのです。

  「さんみいったい」って、「いったい」何のことだろうかと思われるかもしれません。そうです、神さまは、どんな時にも、いろいろな、姿を変えて、〝あなたを愛している〟と言い続けてくださっていることの表しなのです。

熊本教会では、日曜10時半からの主日礼拝の他に夕礼拝をしています。夜7時半~8時 静かな礼拝のひと時です。
 どんな人も、招きの内にあります。