ルーテル教会とは

ルーテル教会と日本宣教

キリスト教会には、大きく三つの流れがあります。一つは、ギリシャ正教、ロシア正教に代表される東方教会(これには便宜上、コプト教会、エチオピア教会など、カルケドン公会議の定めた信仰告白に反対したグループも含めます)、一つはローマ・カトリック教会(いわゆる、旧教)、一つはプロテスタント諸教会(同じく、新教)です。このうち後者二つを、前者である東方教会に対して西方教会と呼びます。東方教会と西方教会は、言語的、地理的、神学的、政治的困難のために1054年に公に袂を別ちます。西方教会は、ローマ司教である教皇を頂点とし、またラテン語を教会の公用語とし、現在の北欧、西欧、中欧、南欧を中心に根付いていきます。

 中世後期の1415世紀ごろになると、ピラミッド型の権力構造を持ち、支配力を行使し、さらに世俗化が進む教会に対しての不満が起こり、いくつかの運動となっていきます。ザクセン地方(現ドイツ)の大学で教鞭をとっていたアウグスティヌス会修道司祭であるマルティン・ルターの運動も、そのようなものの一つでした。歴史の教科書などには、ルターが宗教改革を起こしたと表記されることが多いのですが、実際にルターの試みたことは教会内の改革、刷新であり、ルター自身には教会を離れようとの意図はありませんでした。しかし、結果として彼の運動は自身と仲間たちの破門を招き、公の意味において諸プロテスタント教会の誕生をもたらすことになりました。

 15171031日、ルターは「九十五箇条」として知られる諸提題を、ウィッテンベルクのシロ教会の門扉に打ち付けたと言われています。そのため、この日は宗教改革記念日として知られています。また、1530年にはアウグスブルクにおいてルターと仲間たちによる信仰告白書が提出されます。ここに、ルーテル教会(ルター派教会)が成立するのです。

 ルターと仲間たちは、何を信じ、告白したのでしょう。それは、宗教改革の三大原則である「聖書のみによって、信仰のみによって、恵みのみによって」という言葉に収斂されます。私たちの救いである福音は、聖書のみによってその正しさが試しまた証しされ、信仰のみによって与えられ、そしてすべては神の恵みのみによってなされるということです。それは、「救いは『キリストのみによって』」という信仰告白であると言うことができるでしょう。彼らはまた、このような福音理解と、それを顕かにする洗礼と聖餐という二つの聖礼典(サクラメント)を信じ、告白したのです。

 ルーテル教会はその後、ドイツの諸地方および北欧諸国に広まります。そして、その後数世紀の間ヨーロッパからアメリカ大陸への移民が増えるにしたがって、アメリカにも広まります。

日本へは、アメリカから1892年に南部シノッド(サウスカロライナ州を中心とする南部州のルーテル教会群)の二人の牧師が宣教師として来日して以来宣教が続いています。1900年にはフィンランドからも宣教師たちが来日しました。これらアメリカ、フィンランドの教会は、第二次世界大戦の困難にも拘らず、紆余曲折を経ながらも日本福音ルーテル教会という一つの教会として活動するようになります。戦後、アメリカを中心にいくつかのルーテル教会が日本に宣教師を派遣しました。当初、それぞれの地域で独自に宣教活動を行っていましたが、1963年に合同され、今の形に組織されました。